経歴
昭和39年 | 日本医科大学 医学部 卒業 |
昭和45年 | 九州大学大学院 医学研究科 終了 |
広島赤十字原爆病院 消化器内科 副部長 | |
昭和61年 | 木村医院 院長 |
平成元年 | 日本初の生体肝移植を主導 島根医科大学 永末直文教授(当時助教授)と共に成功に導く |
平成6年 | 和木三志会 会長 |
平成19年 | 山口県内科医会 会長 |
平成26年 | 医学医術に対する研究による功労表彰者 受彰 |
平成27年 | 日本臨床内科医会功労賞 受賞 |
令和元年 | 逝去 |
追悼文
我が父、そして師 木村 直躬
木村直躬は令和元年9月23日83歳で永眠いたしました。故人が生前賜わりました御厚情に深謝いたします。
直躬は昭和39年日本医科大学を卒業しました。修道高校時代は主席を争う優秀な成績で、本命は東京大学医学部であったようです。現役受験に失敗し、上京後浪人してのチャレンジでも叶わなかったとき、開業医であった祖父からともかく早く医師になるよう諭されたそうです。医師になってからの父の並外れた勉強熱心さは、この時の悔しさからきているのかもしれません。
昭和45年九州大学にて学位を取得したのち広島赤十字原爆病院消化器内科に副部長として赴任しました。のちに一生のライフワークとなる、超音波検査装置との出会いはこの時でありました。まだ全国で超音波検査装置が非常に珍しかった頃、当時の院長に頼み込んで購入したそうです。現在のものと異なり、まだぼんやりとしたイメージしか描出できなかった超音波でしたが、父は当時から『将来絶対に臨床検査のメインとなる機器だ』と直感し、のめり込みました。しかし周囲からの反応は非常に冷ややかでした。『あんなオモチャに夢中になって、木村は頭がおかしくなったのか』、口の悪い上司はこういって冷笑したそうです。しかしその後の臨床における腹部超音波検査の位置付けは皆様ご存知の通りで、父は何かにつけて先見の明があったと言えます。
日本における腹部超音波検査の先駆けとなった父ですが、専門領域である肝臓学会でも秀抜な活躍をしており、当時コロンビア大学から研究員としての採用オファーがあったとよく自慢しておりました。さあこれから世界へ羽ばたく、そんな昭和53年、和木町で開業していた祖父が急逝しました。1年間の逡巡葛藤ののちアメリカ留学を諦め継承開業することになったのですが、この時のことを父は『好事魔多し』と表現しておりました。
父を語る上でもう一つどうしても外せない話があります。平成元年に行われた日本で初めての生体肝移植です。絵に描いたようなド田舎の小さな医院の院長が、日本初の生体肝移植を企画し実現させた…。詳しい経緯は父の著書である『決断〜生体肝移植の軌跡〜』に記載されていますが、その後NHK番組『プロジェクトX』などにも取り上げられたこの日本初の快挙、そして実家に押し寄せた取材の大騒動を当時中学生であった私もハッキリと覚えています。『こんな田舎でも、肝臓に関しては日本の誰にも絶対に負けない。』規格外の負けず嫌いであった父は、生前こう言ってニヤリと笑っていました。
『医療と介護に終わりなし』が口癖で、文字通り医療に人生を捧げた父でした。令和元年春、大腸癌という病魔に襲われましたが、治療を拒否し本当に倒れるギリギリの8月まで診療を続けておりました。ついに病床に伏し起き上がれなくなったときでさえ、父はこう言っておりました。『あっち(医院)は大丈夫か?』
『大丈夫ですよ、しっかりやっています。安心してください。』
私が答えると父は静かに笑い、そして安心したようにそのまま旅立って行きました。 先日、父が最後に診察した患者様のカルテが私のところにまわってきました。癌末期の病苦にもかかわらず患者様に真摯に向き合った、父らしい詳細な超音波検査所見がそこに記載されていました。最後まで地域医療に貢献することができ、悔いなき人生であったと思います。
『忠恕の心』 我が師と仰ぐ父の遺した言葉を胸に、未熟者でありますがこれからも精進してまいります。医師会の皆様、そして父に関わって下さいました全ての皆様に、故人に代わり心からの感謝を申し上げます。
本当にありがとうございました。
令和元年11月 木村医院 理事長・院長 木村俊之